水曜日, 3月 14, 2007

反省文。

正しい日本語などと言うものは無い。その時代の標準的な日本の言葉があるだけである。たとえ文法・用法が標準と違っていても、それが慣用句となれば、それはその時代の正しい日本語になり得るのである。言葉は変化し続け、言葉の生き残りを決めるのは次の世代であり、それは文化と言う形で昇華される事なのである。
先ほど、NTTから電話がありました。話すと長くなるのだが、(既に長い・・)概ね、申し込みしていたプロバイダ変更による割引特典についての話である。僕が考える彼女の会話の問題点は二つ。職業の割に言葉に対する危機管理がなされていない事。そして、日本語が標準的でない事である。彼女は、非常に断定的な話し方をする。それも、説明は抜きにである。おかげで何度もその話の基軸・根拠を聞き返す事になる。会話の組み立てが不自然であり、会話が矛盾してくると、当社では解りかねる事柄であると言う。しかも、その後に、余計な私見を入れるのだ。「私はオススメしませんが・・」根拠無く話し、断定し、私見を入れる。多分、彼女がアナウンサーになったら、抗議の電話は鳴り止まないと想像する。まさに、言葉の危機管理なき行為なのである。  ・・・それに日本語が正しくない。
「日本語が正しくない。」・・困った。これでは自己矛盾ではないか・・
僕は常日頃から、「正しい日本語を!」と主張する人を斜めに見ていた。そんなやつは、平安時代にでも行って、そちらの人々に叱られるがいい。「そちの言葉は、正しくないでおじゃる。」とかね!でも、彼女と話している時に感じた気持ちは、まさに自己矛盾であり、新しい発見であった。「正しい日本語だろうがなかろうが、理解出来るのであらば、その事で人格を疑う事は恥ずかしい行為である。」が、「不安定な会話を標準的でない日本語で行うと、相乗効果的に不信感が高まり、さらには人格を疑う。」と言う気持ちに至った訳である。今思う事は、標準的な日本語は意外と大事。今までに、この事について議論した人には、ごめんなさい。謝罪して少し持論を変えさせて頂きます。でも、言葉より気持ち!は、今も変わりません!

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