火曜日, 1月 23, 2007
へとへと
今週末、ニューイヤーミーティングに行くつもりです。チェックを兼ねて、うーを久しぶりに走らせました。少しすると右フロントホイールから異音。あれれ、と思っていると、左からも異音・・・車から降りてみると、両輪パンクしていました。「いたずらか?」と心によぎります。とりあえず、細い路地だったもんで車を退避させることも出来ず、急いでトランクから空気入れを取り出しホイルに接続。必死にポンプを踏み込む。しかし全然タイヤが膨らまない。よくみれば、ホイールのビートから完全にタイヤが外れている。前方からは、車がやってくる・・うぅ・・必死に事情を話し、迂回してもらう。トランクからジャッキを取り出して、ジャッキアップ。タイヤをビートに押し込むが、なかなかうまくいかない。今度は後ろから車がやってくる。もう、汗だくです。結局の所、空気チェックを怠って、久々に動かしたので、全輪とも空気が抜けていた訳です。パンクを免れた後輪も、殆どメーターが振れない状態でしたので、確定です。うぅ・・なさけない・・・とりあえず、大事に至らなくて良かった。週末は、タントにしようかなぁ・・・
水曜日, 1月 17, 2007
相対的評価理論
ダリが嫌いである。だれがなんと言おうと嫌いである。万が一「ダリ展」に行く羽目にあっても、知り合いには悟られたくない。あの如何にも心理の具現表現を絵画に取り入れました的キャッチーな描写が恥ずかしい。「へぇ・・ダリ展行ったんだー」と言う言葉を聞くことは、私にとって屈辱以外の何者でもないのである。
年が明けて三日目にダリ展に行きました。三が日はさすがに空いてるであろうと踏んだのと、少々前に行った「エッシャー展」が思いのほか良かったからである。だまし絵作家程度に思っていた私が、思いのほかやられてしまって、帰りに本まで買ってくる始末なのでありました。
上野の美術館に着くと長蛇の列、2時間待ちである。さんざん薦めたカミさんも、さすがに閉口。「動物園にでも行って、その後もう一度来てみる?」「そしたら空いてるかもしれないし・・」
結果は散々、2時間半待ちにグレードアップ。美術館から出てくる人々の表情をみても、芳しいものではありません。どんなに良い絵でも、さすがにこれだけ待つとねぇ・・と言うことで、今回は帰路に着きました。そんな訳で、私のダリの評価「もっと嫌い」にグレードアップです。でも、次に来たときは、今度こそ!と思っています。
年が明けて三日目にダリ展に行きました。三が日はさすがに空いてるであろうと踏んだのと、少々前に行った「エッシャー展」が思いのほか良かったからである。だまし絵作家程度に思っていた私が、思いのほかやられてしまって、帰りに本まで買ってくる始末なのでありました。
上野の美術館に着くと長蛇の列、2時間待ちである。さんざん薦めたカミさんも、さすがに閉口。「動物園にでも行って、その後もう一度来てみる?」「そしたら空いてるかもしれないし・・」
結果は散々、2時間半待ちにグレードアップ。美術館から出てくる人々の表情をみても、芳しいものではありません。どんなに良い絵でも、さすがにこれだけ待つとねぇ・・と言うことで、今回は帰路に着きました。そんな訳で、私のダリの評価「もっと嫌い」にグレードアップです。でも、次に来たときは、今度こそ!と思っています。
木曜日, 1月 11, 2007
SHIFT_the future
「娘の親友でいること」「娘の憧れであり続けること」
これは、桐島かれんを起用した日産プレサージュのCMコピー。カシスソーダ色のプレサージュが雨の街を、一転して輝く夜の街を「Time after time」(原曲Cyndi Lauper)の曲に乗せて駆け抜ける。
車は商品であり、CMはイメージを誘発させて商品を引き立てる。特定の商品購入者層に偏ったイメージ戦略も当然の行為である。しかし、最近の日産のCMを見ていると、どうも気になる。いや、正直なところ不快に感じる。
「娘の親友でいること」一般的にも言われていることだが、保護者責任の回避と解釈される場合がある。当然、親であり親友である素敵な関係を主張しているのであろうが、現代風のバーチャルな考え方、表面のキレイなものだけを見て、本質をないがしろにする中身のないコピーともとれる。「娘の憧れであり続けること」憧れの対象であり続けるということは、娘の憧れを想定しての考えであり、それを独断で演出するわけである。憧れる対象は、それぞれの感性や年齢、社会的な立場によって変わるものだが、それを認めていない。または自己満足。娘をひとつの個性として見ることが出来ない母親像が浮かびだされる。これが、ポルシェやアルファーロメオのCMなら何もこのような想定には至らない。なぜなら、それ自身が非日常性をもたらす存在だから。日産プレサージュのCMは、美しい映像ではあるが、過剰主張でありバランスが悪い。車にモダンリビングが必要か?とか、韻の踏み方が強引なセレナCMとか、わけのわからない縫いぐるみ動物が登場し、偽善的に環境性能を主張するLEV・CMより倫理観を疑われても仕方のないものと考える。
「あなたを輝かせるプレサージュ。」その輝っていったい何?
http://www2.nissan.co.jp/PRESAGE/U31/0605/CONCEPT/main1.html
これは、桐島かれんを起用した日産プレサージュのCMコピー。カシスソーダ色のプレサージュが雨の街を、一転して輝く夜の街を「Time after time」(原曲Cyndi Lauper)の曲に乗せて駆け抜ける。
車は商品であり、CMはイメージを誘発させて商品を引き立てる。特定の商品購入者層に偏ったイメージ戦略も当然の行為である。しかし、最近の日産のCMを見ていると、どうも気になる。いや、正直なところ不快に感じる。
「娘の親友でいること」一般的にも言われていることだが、保護者責任の回避と解釈される場合がある。当然、親であり親友である素敵な関係を主張しているのであろうが、現代風のバーチャルな考え方、表面のキレイなものだけを見て、本質をないがしろにする中身のないコピーともとれる。「娘の憧れであり続けること」憧れの対象であり続けるということは、娘の憧れを想定しての考えであり、それを独断で演出するわけである。憧れる対象は、それぞれの感性や年齢、社会的な立場によって変わるものだが、それを認めていない。または自己満足。娘をひとつの個性として見ることが出来ない母親像が浮かびだされる。これが、ポルシェやアルファーロメオのCMなら何もこのような想定には至らない。なぜなら、それ自身が非日常性をもたらす存在だから。日産プレサージュのCMは、美しい映像ではあるが、過剰主張でありバランスが悪い。車にモダンリビングが必要か?とか、韻の踏み方が強引なセレナCMとか、わけのわからない縫いぐるみ動物が登場し、偽善的に環境性能を主張するLEV・CMより倫理観を疑われても仕方のないものと考える。
「あなたを輝かせるプレサージュ。」その輝っていったい何?
http://www2.nissan.co.jp/PRESAGE/U31/0605/CONCEPT/main1.html
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